クッキーは甘かった

 

 静かな部室でコーヒーを飲む。ゆったりとした良い時間だ。部室でこうしてコーヒーを飲めるのは今日が最後。明日からは家庭学習期間で、あとは卒業
式だけである。
 この部室は今日で明け渡す。全てを片付けないとダメ。あぁ、もう新聞部の活動も終わりか。感慨深いものがある。ただ、もう何にも縛られず、やる事も
ない。春休みくらいは、何もしないダラけた生活を送るのもいいだろう。専門学校の四月十日まで、二ヶ月ほど暇な時間がある。ただ、今回が人生最後
の長期休暇だ。専門学校は二年生なので、二年生になれば就職活動。一年生にしても、資格を取るために頑張らないとダメなため、これまでの通り気
楽にはいれない。
 そうだ。人生最後だ。もし次があるとすれば、老後かな。卒業すれば普通の会社に入って普通に、普通に行くんだろうな。綾は制服を着なくなるし、部
室で暴れることも無くなるし、大人っぽい服も着て、ヒールも履いちゃったりするんだろう。そしてお互い中年になり若くいられなくなり、気づけばおじさんお
ばさん。そしておじいちゃんおばあちゃん。お互い、年は取りたくないね。
 そんな事を考えていると、部室のドアが思い切り開いた。嫌な予感。
 綾がホウキを二つ持って立っている。黒い髪はついに背中まで長くなっている。薄い化粧をしていて、頭には白色のティアラ。ラメの模様が、光でキラキ
ラしてる。スカートは心なしか短くなっている。綾も三年で変わったな。大きく変わったのは付き合ってからだけど。
 ぼーっと綾を見ていると、何故かホウキを床にぶん投げた。
「殿。何故そんなにお怒りなのですか」
「ふざけんな! 窓拭いててって言ったでしょ。なんでコーヒー飲んでるの? ここはアンタのプライベートルームじゃないのよ! 今日で明け渡すんだか
ら、早くしないとダメなんだからね」
「ちょっと待てよ。ポット置いたり雑誌置いたり携帯テレビ置いたりノーパソ置いたりお菓子食べたり、完全に自分の部屋と思い込んでるのはお前じゃない
か」
「うるさいっ。何が殿よ。いつもいつもふざけて。あ、じゃあアンタは家臣ね。それなら言う事おとなしく聞きなさいよ。ほら、ホウキ持ってゴミ掃きながら窓
拭く!」
 綾はホウキを俺に持たせると、えっさほいさとゴミを掃きだす。しょうがない。俺はコーヒーを一気飲みし、ホウキで適当に掃除するフリをしながら、雑巾
で窓を拭く。
 掃除が終わったら、色々と物を運び出さないとなぁ。
「もう。もっと力入れて掃除してよ」
「お前さ、最近口うるさくなったな」
 俺がそう言うと、綾は急に動きを止めて、俺をチラッと見た。そして小さい声で言った。
「だって、今のうちに口うるさく言っておかないと、アンタ何もしないだらけた亭主になりそうだもん」
 俺は窓を隅から隅まで丁寧に拭いて、チリ一つも見逃さすにゴミを掃いていく。掃き掃除が終わり窓も拭き終わると、二人で棚を拭いていき、雑誌など
の私物をとりあえず床に置いていく。
 そうすれば、もうほとんど掃除は終わった。まぁ、拭いて掃くだけだ。時間はそんなにいらない。数十分して掃除が終わると、俺たちは椅子に座って一息
ついた。
 綾はスカートのポケットからクッキーの袋を取り出し、一枚くれた。
「これでいいかな。もう部室には入れないからね」
 クッキーを一口。……甘いな。
 普通なら、「あぁもう終わりか。悲しいよ。寂しいよ!」と思うのだろうけど、いざ終わりが来ても実感がない。新聞部だけじゃなく、まず学校が終わりとい
うのが信じられない。
 だって、俺は永遠に教室でのくだらない雑談をする時間が続くのだと本気で思ってたし、新聞部で綾と二人でずっと新聞を書き続けるのだと本気で思っ
ていた。だから明日からいきなり学校が無くなるなんて、よく理解出来ないというか、実感が沸かない。
 でも、よ部室を見渡すと、私物は床に集められ、埃っぽかった部室は綺麗になって、パソコンなども無くなっている。もう終わりなのだ。
 終わりか。これまでの三年間がもう終わるのか。嘘じゃないんだなぁ。
「綾。お前、卒業式まで何してる」
 俺がそう聞くと、綾はムッとした顔で言った。
「だーかーら。その聞き方がおかしいの。一緒に何する、でしょ」
「そうだなぁ。でも、もう学校無いとなると、なんかすげー力抜けたなぁ。本当に何しよう」
「する事ないよね。新聞部も、学校も終わりだし」
 クッキーを口に放り込むと、またも部室のドアが思い切り開いた。ドアを静かに開けれる奴はいないのか。
 入って来たのは野々宮で、髪は茶髪になっている。あと、この三年で野々宮の目が少し優しくなった気がするんだけど、気のせいかな。でも、一年生の
ころの野々宮は、余裕の雰囲気を漂わせていたけど、それはどこかぎこちないというか、頑張ってそう見せてる気がした。でも今は本当に堂々としていて
肝が座っている。
「綾ちゃん、海藤君」
「なんだよ」
「お話があるわ」
 野々宮は椅子にどかりと座り、足を組んだ。そして、ニヤリと笑った。久しぶりに見た、その怪しい笑顔。小悪魔というか、そんな何か企んでいる目。
 机に頬杖をつき、上目遣いで野々宮は言った。
「あのね、卒業式練習の前日に、文化部での発表会があるの」
 なんと。そんな事をやるのか。いやいや、みなさん精力的で。
 俺はこの後の展開を読める。まず綾が……。
「マジで!? そ、それは参加するしかないわっ。よし、もう活動終わったと思ってたけど、これが本当に最後ね」
 こんな風に、ノリノリになる。そして野々宮が、一緒 にやろうとでも言うのだろう。
「うん、そうね」
「じゃあ玲ちゃん、一緒にやろうよ! ね?」
 綾がそう言うと、野々宮はまたニヤリと笑った。
「何言ってるの綾ちゃん。貴方は明清東新聞部、私は生徒会新聞部よ。今回は三年生の卒業発表だから、参加は三年生だけなの。当然私も出るわよ。
生徒会新聞部で」
 野々宮は綾のクッキーを一枚、勝手に食べると、不適な笑みで言った。
「しかも、普通の発表じゃないの。どの部が一番か決めるのよ」
「じゃ、じゃあ尚更一緒にやろうよ玲ちゃん」
「ダーメ。私は生徒会新聞部だし。それに、勝ちにいくわ。ま、こちとら三年生だけでも八人いるし、一ヵ月もあればそれなりの物は書けるわ。あ、そっち
は二人だっけ。ま、せいぜい頑張って」
 野々宮はそう言うと、さっさと部室から出て行った。
 ……あ、あの野郎。最後の最後に敵に回って、挙句の果てにバカにしやがって。
 綾はクッキーを机に投げると、勢いよく立ち上がった。
「の、のの、野々宮! ムカつく! か、数が多ければいいってもんじゃないのよっ。駿!」
「あいよ」
 俺は棚から原稿用紙数枚、シャーペン、サインペン、定規などを机に置き、また座る。
「よし。考えるわよ。なんか面白い記事書いて一番になるわよ。アンタ、今回が最後なんだから張り切ってやりなさいよ」
「わかってるって。つーか、お前そんな簡単に挑発に乗るなよな」
「う、うるさいなぁ。で、何を書く? 面白そうなテーマ」
 考える。学校の事を書いてもしょうがない。まずコラムだろう。そしてテーマとなる一番大きな記事。発表するのだから、細々とした記事はいらない。一
つ大きな記事をどかんと載せ、二人のコラムを載せる。それでいいだろう。詳しい情報とかはいらん。あくまでもインパクト。
 インパクト狙いとなれば、他の人がやりそうにない事を書く。皆、どうせ卒業に関係したものを発表してくるだろう。全部の文化部が参加するかどうかは
わからないが、茶道部……は何するんだろう。茶でも飲まされるのか。文芸部は、まぁ文集みたいなもんだろう。マジック愛好会てのもあったな。あれは
出てこられたらインパクトで勝ち目は無いけど、また別の問題な気がする。
 いや待てよ。吹奏楽部と合唱部も文化部じゃん。出てこられたら勝ち目無いぞ。どうするべきか。
 そもそも、勝ちの基準はなんだろう。やっぱり、一番心にグッときたものだろう。それで楽器使われたらたまったもんじゃない。マジックも惹きつけられ
る。
 ……しかし、だ。俺は文章に勝るものはない。ペンは剣より強い。文章も芸術だ。楽器や歌声にだって勝てる。文章に勝てるもの等ない。俺はそう思っ
てる。でもしつこいようだけど、演奏、歌、あと美術部の絵と争って勝てるか。この三つはまた話が別だ。そこはもう、俺たちの力量にかかってる。
 それにやるなら、卒業もしくは学校に関係にするのは絶対だ。それで関心が高いと言えば……。
 あ、学校の七不思議。超ベタにして鉄壁の話題。
 三学期あたりから、夜に怪奇現象が起きるという。まぁどれもふざけた話だが、一応その噂はほとんどの人が知っているが、気にしている人はいない。
誰かが適当に話した事が、広まってしまっただけのこと。
 ただ、誰も気にしていないからこそ、その噂が真実だったら驚くのではないか。しかし現実に幽霊はいない。ただ、何故そのような噂が流れたのかを突
き止めれば、インパクトは大きいのではないか。
「怪奇現象だ」
「あー。最近噂の」
「そう。嘘の確立の方が大きいけど、ここまで噂が広がるなんて、まぁなんかあるんだろう」
「そんなのダメだよー。子供だましじゃん」
「……じゃあ、お前なんかあるのかよ」
 綾は足を組み、うーんと考え出した。
 何かないかなぁ。インパクト。コラムなどで頑張るにしても、それだけで野々宮には勝てないだろう。あいつはとても立派な文章を書きやがる。
 量は少ない方がいい。スマートにまとめるべき。だからこそ一つの大きなテーマがないと厳しい。卒業に関して云々。ダメだありきたり。何か変わったこ
とをやらないと一番にはなれない。
 にしても、一番か。俺が一番を目指すなんて、これまでじゃ考えられなかった。別に深い理由はない。ただ、最後の活動で一番になりたい。ただそれだ
け。やるんなら一番目指した方がいいじゃん。
「どうしても、立派な記事を書こうとすると、内容が堅苦しくなるわね。ただ、文芸部、美術部あたりは卒業文集、学校の絵あたりで来るでしょうね。そして
どの部にしても、終わりの発表をすると思う」
「どういう事?」
「写真部なら、卒業する三年生の笑顔の写真、修学旅行とかの思い出の写真。美術部なら学校や先生の絵。吹奏楽部なら卒業っぽい歌。川嶋あいの
旅立ちの日しかしスピッツの空も飛べるはずしかり。合唱部も同じでしょう。文芸部や卒業文集。卒業に関しての文章を語るんでしょう。つまり新聞部と似
てくるわ。マジック愛好会は、どうだろう。部じゃないから出ないんじゃないかな。それにこういう発表の場で、マジックってどうよ。しらけるでしょ。マジック、
茶道、英語部あたりは出ないでしょ。発表しようがないし。アニメ部は漫画かな? パソコン部はちょいと未知数だけど、卒業に関してのHPを作って発表
って感じ?」
「つまり……。ほとんどの部が、卒業に関する内容。そして妥当な線か」
「そう。でさ、そういう発表を一気にやられたらどう?」
「飽きるな。どの部も卒業の内容か、みたいな。あと……」
「寂しくなるよね。終わりなんだって思っちゃう。それでさ、今思ったんだけど、ならこっちは卒業に関するのは、最後のコラムにして綺麗に締めるの。で、
最初は学校のそういう噂を元気一杯に突き止めてみました! って感じでいくのはいいかもしれない。そうすれば、なんだまだ自分ら高校生じゃん、って
思えるかもしれないし」
 そうだよな。最後の発表で卒業に関することをやってしんみしてどうする。それにまだ卒業式が残ってる。遠足は帰るまでが遠足だ。高校生活は卒業式
を終えて四月一日になるまでは高校生だ。まだ終わっちゃあいない。終わりに向かうのではなく、あくまでも高校生活を捉え続けなければ。
 だから、「え、卒業? なんの事ですか?」って感じでいけばいい。
 綾は、大好きなぬいぐるみを親に買ってもらったような顔で、シャーペンを握った。
 また明日。また今度ね。CD、学校に持ってきて貸すね。その言葉がもう幻になっていく。両手いっぱいに握っていたものが静かに消えていく。それを何
故、逢えてぐだぐだと語らねばならないのか。それにはまだ早い。
「一応、やってみるか」
「具体的に、どんな感じに?」
「それは……。夜、校舎を歩くしかないだろ」
「まぁ、そうよね。それしかないか」
 という事で、とりあえず大まかなレイアウトを決めて、綾がタイトルを書くうちに俺は定規で枠を書き、それが終わると俺がコラムの内容を考え、その間
に綾は怪奇現象についての噂をメールで友達に聞く。
 我が新聞部はアナログであり、パソコンを使ってデザインしたりはしない。オール手書きである。機械はコピー機しか使わない。
「ねぇ駿。いつ、学校探索するの」
 いつにしようか。別に焦る必要は無いけど、かと言って急ぐ必要もない。まだ一ヵ月ある。
「一週間後あたりにでもするか。その前に、さっさとコラム書いちまおう」

 一週間が経った。
 暇。それしか言葉が出ない。コラムは家でさっさと書いてしまった。最後のコラムなので、結構気合を入れて書いた。
 もう新聞のコラムを書くなんて事、しないだろうなぁ。綾は、どうだろう。あいつは出版社か新聞社に入りたいらしく、もしかしたら大人になっても新聞を書
いてるかもしれない。
 家で綾とだらだら。特にすることは無い。遊びに行くにも金がない。このまま卒業式まで何してればいいんだ。虚無感。なんか日に日に心が消耗していく
感じ。
 綾は俺のベッドの上で布団にくるまっている。顔だけ布団から出して、俺をひたすらに見つめている。そうまで見つめられると何を言っていいかわからな
い。
「ねぇ」
「何?」
「暇。なんか面白い事ないの。スリルあるっていうか」
「こんな平和ボケした国に、スリルなんてそうそう無いよ」
 暇だから、なんかスリルは無いのか。そんな事を考えるなんて、お前もまだまだ子供だな。って俺もだけど。
 まぁ、丁度いい。そろそろ行くか。
「今日あたり、行くか」
「え、こ、心の準備が」
「なんだ。ビビってんのか」
「だって! そりゃビビるよ。そんな……」
「だって他に何もねぇよ。夜、行ってみるぞ」
「そ、そんな。だってあぁいう所って高いんでしょ。私お金ないよ」
「どうしてお前はそう唐突にボケるんだ。学校だよ」
 綾は舌をペロッと出して笑った。
 その後適当に時間を潰し、七時ごろ俺たちは家を出た。
 二月。あっという間に暗くなる。ブレザーを着た明清東高校の生徒達、セーラー服を着た他校の生徒達。楽しそうに歩いていく。いやぁ、若いね。君達
はまだまだ制服を着て、教室で授業を受けるんだから。おじさんなんか、暇で暇でしょうがないんだよ。
 いやでも。本当にもう若いと言える年は少ないな。
 制服を着るのはあと二回。一秒一秒、卒業が近づいていく。もう木の椅子に座ることは無いし、これまで当たり前だったことが全部なくなる。つーか、そ
もそも教室っていう空間で九年間同じような事を繰り返してきたことが特殊なんだ。考えてみればおかしな話だ。毎日毎日学校へ行き教室に入り、ひたす
ら口を動かすくせにペンを握る手はあまり動かない。
 授業中眠ければ寝て、終わったら家にふらふら帰る。会社で働いてる人からすれば、なんとも気楽な毎日だろう。って俺も働くことになるんだけど。
「なぁ綾。何歳から若いって言えなくなるんだ」
 綾はロリポップを舐めながら言った。
「二十五歳くらいから、危ないんじゃない」
 確かにそのくらいだろう。俺は今十八だから、あと七年しか堂々と若いと言い張れない。
 学生時代の終わりは、初めて訪れる人生の一区切りだ。まぁ専門、大学とまだ残ってるけど、この二つはまた別だ。
 思えば、やたらムダの多い学生生活だったけど、まぁムダだらけなのが学生生活なのだろう。そりゃ良い事も沢山あったが、思い出はどうしても後悔な
どの方が多い。
 綾は、何故だか俺をチラチラと見ている。何か変なこと言ったか。
「私が年取ったら捨てる気?」
「アホか。そういう意味じゃないって」
「そっか。良かったぁ」
 そんな話をしているうちに、学校についた。
 あたりは暗いので、いつもより不気味である。
 さて。学校はもう閉まっているが、慌てない。俺たちは校舎の裏に周り、とある所で止まる。そこは、空き部屋で主に物置として使われている。そして、こ
の部屋の窓はかなりボロい。たてつけが悪い所じゃない。
 それに用務員も、この部屋をちゃんとチェックしてるか怪しいもんだ。
 俺は窓に触れてみた。どうやら、案の定鍵を閉めていない。こりゃ楽だ。
 思い切り窓を横にスライドさせると、あっさりと窓が動いた。
「凄い! 開いた開いた!」
 あぁ、開いたな。子供みたいに騒ぐな。
 と言っても、完全に見た目は大人になっている。黒いティアードスカートはオシャレである。あぁ、二段のふりふりのスカートなんてのも、今でしか着れな
いんだろうなぁ。上は黒いダッフルコート。今日も白色で、ラメの模様があるティアラを頭につけている。
 背も少し伸びたし、顔も大人びてきている。子供っぽい顔にはほとんど見えなくなった気がするけど、それでも笑顔はガキっぽい。
「私先に入る」
 そう言って、綾は窓枠に手を置き勢いよくジャンプしたが、足が上がらずにもがいている。こいつ、足硬いんだよなぁ。
「しゅ、駿。上がれないっ」
 仕方ないので俺は後ろから綾をよいしょと抱きかかえた。この年になって抱っこされるとは思ってなかっただろう綾は、バタつきだした。
「ちょ、アンタどこ触ってんのよ」
「どこって。おなかだよ。いいから上がれよ」
「それ口実にしてるだけなんじゃないの?」
「違うっての。あと暴れるな」
 綾はよいしょよいしょと足を上げてなんとか入ろうとする。ケツをあげてもがいてる姿はとても間抜けだ。
 しばらく頑張っていたが、何故か急に動きを止めた。面倒なやつだ。さっさと上がってパッと校舎見回ってチャッと帰っちゃいたいのに。なのに綾は、窓
枠におなかを乗っけたまま、左手でスカートを押さえだした。
「どうした。痔か?」
「女の子にそんな事言えるデリカシーの無さに驚きだわ」
「で、なんで止まるんだよ。早く上がれ」
「目つぶってよ。アンタ、あわよくば見てやろうとか思ってるでしょ」
「お前、考えすぎだぞ。いいから上がれ」
 足をあげて、なんとか部屋に着地する。俺もさっさと部屋に入る。
 さて。当たり前だが、真っ暗だ。
 夜の校舎。怪奇現象。学校の七不思議と言えば、懐中電灯だろう。しかしどうだろう。こんなの考えるまでも無い。俺は持ってきてない。綾の手には小さ
いポーチだけ。
 おぉ、なんてこった。懐中電灯というものに今気づいた。どうしようか。真っ暗の校舎を歩けというのか。
 綾も懐中電灯が無いのに気づいたのか、少し動揺している。でも大丈夫。俺とて男。こんな事くらいでビビらない。
「携帯のライト使おう」
「言われなくても使うわよ」
 携帯のライトであたりを照らしながらドアに近づき、ノブを回して廊下に出る。
 さすがに雰囲気が出ていて、少し怖い。本当に真っ暗で何も見えない。とりあえず歩く。物音一つしない。
「ねぇ駿。怖いんだけど」
「そりゃ、暗いからな」
 綾は俺の腕をガッシリと掴んでくる。
 しかし暗いと言ってもただの学校。三年間通った学び舎だ。今更ビビることはない。階段を上り二階に行き、更に廊下を突き進む。
「なぁ、そもそも怪奇現象って、どんな現象なんだ。走る人体模型か」
「私が聞いたのは、夜中になるとね、次元が歪んでしまうの。そして教室に残ってた生徒達は、教室を出て行くと次々に姿を消しちゃって、トイレに入って
しまうと謎の手に引っ張られちゃうの。そして、時計は全く動かない」
「どこかで聞いたような話だな」
 ヤバイ。今の話、超怖い。何もこんな時にそんな話しなくてもいいじゃないか。走る人体模型とか、音楽室でピアノが鳴り出すとか、そういうベタな話でも
してくれれば、なんだその程度かと強がれたのに。
 暇つぶしで来るもんじゃないな。夜の学校なんて。でも来てしまったからにはビビる訳にいかん。幽霊なんてもんいちゃいけない。それに幽霊なんて、ど
れも誤解だ。心霊写真は、カメラの故障やなんやらが原因で、心霊現象もだいたいは気のせいや思い込みだ。
 綾はチョコを食べながら、ビクビクしながら歩く。こういう事に関しては図太そうだけど、綾はホラーは苦手だ。野々宮なんかは、多分本物の幽霊を見て
も、「さっさと成仏しなさいよ。まだ世の中に未練あんの? しつこいわよ!」って感じで説教しそうである。
 三階に上がる。当然何もない。何かあっても困るのだが。
 水飲み場の前を通る。ここは鏡があるので怖い。
「しゅ、駿。もう怖い。なんもないから、さっさと帰ろう」
 それがいい。そう思ったとき、鏡に何かが映った気がした。
 頭の中が真っ白になる。いや気のせいだ。そう思いもう一度見ると、火の玉のようなものがサッと映った。確かに映った。
 二人で固まる。しかしもう火の玉は見えない。しばらくして我に帰ると、綾はもうダッシュで階段を駆け下りていく。俺も後を追い、すぐにさっきの空き部
屋にいき、脱兎のごとく学校から脱出する。
 暗闇の中を、綾まだ走る。そして国道に出たところでやっと止まった。
「おい、落ち着けって」
「ひ、火の玉がいた!」
「落ち着け。そんなバカな話があるかよ。た、多分用務員かなんかだろ。あれ、火に見えたか」
 俺は携帯を開いて綾に見せた。逃げる時、勇気を振り絞ってカメラで撮ったのだ。
 かなりブレていて、鏡をギリギリ映しているだけだったが、画面の端っこが、確かに光っている。明らかに光のような、火のようなものが映りこんでいる。
これは光の玉か、火の玉か。
「ほ、ほらほら。映ってるじゃん。ヤバイって。マジで怖いよ」
 信じがたい。俺は信じない。これには何かカラクリがあるはずだ。綾みたいに、あれを幽霊だと思い込んだ瞬間、世の中に幽霊が誕生するんだ。
「て、ていうか携帯落としてきちゃった……」
「……アホ」
 その後、家に帰ってベッドにダイブして、考えた。
 さっきのは何だったんだろう? よく考えろ。あの時用務員はいたか? いやいなかった。気配はしなかった。でも何かあるはずだ。論理的に考えるん
だ。
 一番ありえそうなのは用務員だが……。暗いと言え、あんな静かな校舎に誰かいたら気づくはずだ。光に気づいた瞬間、人を確認してもいいはず。綾
は黒いパーカーに黒いスカートで見えにくい格好ではあったが、それでもちゃんと確認出来た。当たり前だが。
 人間をあの場所で確認出来ないなんてありえるか。じゃあ人以外。学校で何か光る物があるか? 水飲み場周辺には何があった。教室。それ以外に
は何もない。
 ダメだ。わからない。変なことはするもんじゃないなぁ。
 ベッドの下から、クッキーの缶を取り出した。二年生の秋、このクッキーの缶騒動で、俺は色々と変わっていったと思う。あの頃は、部活に対しても綾に
対しても適当だった。野々宮とも仲が悪かった。
 だが、あの時クッキーの缶は記事に出来なかった。今回もダメなのか。しかし野々宮には負けたくない。しかし、よく考えてみればこの写真で勝てるわ
けがない。自作自演と思われて終わりだ。
 机の引き出しから七色のクローバーを取り出す。最後くらい、俺の力でなんとかしたいもんだ。このままで終われるか。もう一度、調査しなければ。そう
だ。我が明清東新聞部は行動的なのだ。
 この謎を必ず解いてやる。この世で文章に勝てるものはなく、また論理が全てを征するのだ。表現の力は無限大。その論理が幼くても、そこらへんは
若さと行動でカバーしてやる。
 しかし、もう綾は行かないんじゃないかなぁ。しかし、これは調べないとダメだ。原因がわかれば、良い記事が書けるぞ。
 俺は携帯を開き、メールを打った。
 
 翌日、夜七時。俺は学校の前にいた。あともう二人。島崎和樹と相川沙希。
 この二人には新聞部の後を任せている。相川は生徒会なので生徒会新聞部に入ると思っていたが、やたらと綾を慕っているので明清東新聞部に入っ
た。相川は細かい性格をしているので期待している。
 島崎は、まだよくわからない。俺と同じように、相川に迷惑をかけそうだ。でも、この二人に明清東新聞部を守ってもらわないと困る。新聞部はずっと地
味であったが、綾の努力によって、三年生の終盤には、結構な人が掲示板に張ってある新聞をぼーっと見ている人が増えていたし、先生達も職員室前
に貼ってある新聞をよく見ている。
 それもこれも、綾の力なんだ。ありきたりな学校についての記事を大幅に削り、皆が見てくれそうなコラムを書き、あとやたら面白い四コマ漫画を書い
たり、人気のある生徒にコラム書かせたり、ついには校長にコラム書かされたり、その他色々と精力的に見てる分には面白い事をしていたが、それはま
ぁ、今度暇なときにでも思い出して懐かしめばいい。一ヶ月後か、一年後か、十年後かに。
 相川は白いプリーツスカートにカーディガンの上にコート。島崎はジーパン、白いTシャツにコート。なるべく見やすいように白い服を着てくるように命じて
いた。
 綾には一応行っておいたが、来るかどうか分らない。だから、次期部員であるこの二人の予備戦力を呼んだのだ。
「海藤先輩、何するんですか」
 と、相川が不安げな顔で聞いてきた。
「学校探検だ。これを見てくれ」
 携帯の画面を見せる。例の謎の写真だ。予想通り、二人ともピンときてないようだ。でもそれでいい。これが何なのかわかればいいんだ。
「この正体をつきとめて、記事にするんだ」
「そんな、海藤先輩。無理っすよ」
「おい島崎。なんですぐに無理なんて言うんだ。諦めたらな、何も出来ないぞ。せめてやってから言え」
「そんな……。つーか、白井先輩は? いつも磁石みたいにくっついてるのに」
「もう少しで来る……と思う」
 そう言った時、後ろから俺を呼ぶ声がした。綾だ。
 今日は白いスカートに白いコートを着ている。見やすい。そして手には懐中電灯。
 四人もいれば何も怖くない。赤信号だってどこだって渡ってやる。まぁ一人だろうが十人だろうが、赤信号を渡って事故になる確率は変わらないけど。
「遅れてごめんね。沙希ちゃん、幽霊とか大丈夫?」
「霊感強いけど、大丈夫です」
 綾は咳払いをすると、キリっとした顔で言った。
「沙希ちゃん、島崎君。これがアンタたち二人の初めての活動だからね。ま、一度くらいは、私達の行動力を見て勉強しなさい。明清東新聞部はね、もう
中国マフィアと戦うくらいの覚悟がないとダメだから」
 光にビビって携帯落としてきたお前が、中国マフィアなんか見たらどうなってしまうんだろうな。
 次期部長の相川は苦笑い。島崎は少し呆れているようだが、どこか楽しそう。俺達は昨日のように校舎の裏に周る。俺から部屋に上がりこみ、次に島
崎が上がる。相川はひょいっと簡単に上がってこれたが、綾はやはり手こずった。三人で情けない先輩を引き上げ、頼もしい相川が先頭になり部屋を出
る。
 一階をふらふら歩く。当然何も出てこない。
「白井先輩。本当になんか出るんですか? 確かに最近、怪奇現象の噂聞きますけど」
「火のない所に、煙は立たないわ」
「まぁそうですけど……。噂なんて、くだらないですよ。そんなのに振り回されなくても」
「沙希ちゃん。私、怒るわよ。そういう事に本気になれるのは今だけよ。それにね、少しでも気になるんなら、調べてみないと。アンタそんなんじゃ立派な
記者になれないよ」
「私記者にはなりませんけど……」
「そもそも、その光の原因って、用務員じゃないんですか?」
 島崎が俺と同じ事を言うと、綾が言い返した。
「そうかな。そうだとしたら、逃げた私達に声かけるでしょ。おい! とかさ。それにあの時人影は見えなかったわよ」
「暗いから、そうでしょうけど」
 二階に上がる。全く、俺達も暇である。大人になったらこんな事絶対出来ないだろうなぁ。今しか出来ない事は沢山あるのに、それに気づくのは卒業が
近くなってから。
 人間はそんなに賢くないから、今自分がするべき事とか、よくわからない。後になってから、あの時あぁすれば良かったとか、もっと時間を有意義に使え
ばと後悔するが、そんな事言ってたらキリがない。
 結局、人はその時の機嫌と気分でするべき事を決定する。だから、後になってから都合の良い後悔をするんだ。未来なんか見えないんだから、正しい
道ばかり選べない。
 今日みたいな毎日はもう終わる。相川と島崎が羨ましい。もう気楽な子供じゃない。十八歳は果たして子供なのか大人なのか。さすがに十八だと子供
ではない。十八歳から色々な規制から外れる。かと言って、一応二十歳になれば大人だ。十七なら子供だけど、十八から大人。難しいなぁ。
 まぁ、精神的な問題だろう。それだと、今の俺はまだ子供で、いったいいつ大人になれるのやら。まぁあ、あんまり大人になりたくはないけど。
 そんな事を考えながら歩く。綾がやっぱり、俺の腕を掴む。
「白井先輩、見せ付けてますね」と、相川が茶かす。
 悪い気はしない。相川は長い前髪を右手で?き揚げて笑った。よ、余裕たっぷりじゃねぇか。俺も負けてられない。
「でも、楽しいっすね。夜の校舎って」
 と、島崎。おいおい。なんでこの二人こんなに余裕なんだよ。いや、何も見てないから余裕なんだ。
 問題の水飲み場に着くと、緊張が高まる。綾が懐中電灯であたりを照らすが、何もない。水飲み場の鏡にも、何も映っていない。
「しゅ、駿。やっぱ怖い。私怖い。嫌だ嫌だ」
 綾はついに、俺の背中にへばりついてくる。相川は笑いをこらえる。そんな情けない先輩を見て、島崎も笑っている。
 俺は綾から懐中電灯を奪い取り、あたりをよく照らす。教室にも何もない。あぁ普段の学び舎も、どうして夜にはお化け屋敷になるんだろう。昼間はあん
なに騒がしくて当たり前の光景が広がってるのに、暗いだけでこの非日常。
 日常の延長線上には常に非日常がある。そして非日常もまた日常であり、その非日常を楽しみにして俺達は生きているのかもしれない。
 人生、毎日が楽しいわけじゃない。辛い事の方が多い。でも、それを超える楽しい何かがある。だから生きてる。
 一通り見て、また水飲み場の近くに行った所で、突然カチャンという物音がした。
 俺と綾はまた固まったが、相川と島崎は冷静だった。あたりを見回す。俺もビビっていられないので、何があったのか確認する。そして廊下によく目を
やると、何か落ちている。
 それを拾って、さすがに驚いた。綾の携帯だ。
「あ、それ私の!」
 綾は携帯をぶんどり、満面の笑みになる。しかしすぐに顔が凍りつき、携帯を静かにポケットにしまう。
「い、今の音、これ? ね、ねぇどういうこと?」
 綾は完全にビビっていう。だが、俺は逆に冷静になった。これで百パーセント、ここに誰かもう一人いる。確定だ。今ここに携帯を投げたやつが近くにい
る。
 俺は三人に耳打ちした。
「言わなくてもわかるな? 今ここに誰かいる。俺は水飲み場真正面に突っ込む。相川は廊下の右から水飲み場の後ろへ。島崎は左から。綾は俺の後
ろにいろ。それで包囲するぞ」
 三人とも頷く。気配は感じない。という事は、水飲み場の裏に隠れてるか、コソコソと階段を下っていったのだろう。早くしないと逃げられる。
 俺がダッシュすると、二人が左右から走る。俺が水飲み場でストップすると、裏から悲鳴が聞こえた。心臓の鼓動が高鳴る。
 裏を覗き込むと、島崎と相川が人を押さえつけている。そこには、懐中電灯が。全てがわかったし、そして嫌な予感がした。
 島崎が強く押さえつけるが、そいつもなかなか手ごわい。島崎の急所を蹴り上げると、相川を突き飛ばして逃げる。水飲み場から綾の方へ逃げていく。
しかし綾がいる事に気づかず駆け出したのだろう。綾と向かい合って急に右にそれた。
 俺がそいつを捕まえる前に、綾がそいつを両手で捕まえて、俺も背後から押さえる。相川と島崎も必死に両腕を掴む。
「ちょ、な、何なのよ、アンタら!」
 女の声。まぁ、予想は出来てたけど。
「野々宮。お前、何してんだ」
「玲ちゃん……」
「の、野々宮先輩?」
「離しなさいよっ。なんて事するの!」
 とりあえず、俺達は三年H組の教室に入った。野々宮は少し息が切れているが、落ち着いて言った。
「アンタ達、何がしたいの」
「それはこっちの台詞だ。まず、昨日俺達は怪奇現象の噂を確かめに行った。あの時鏡に映った光はお前だろう?」
「知らないわよ。でも、多分そう言うんなら、私の懐中電灯が水飲み場の鏡に映ったんでしょうね。私も怪奇現象調べに来てたんだもん」
 なるほど。俺達は野々宮の懐中電灯にビビっただけなのだ。そしてお互い同じ目的で来ていた。やはり幽霊騒ぎなんて、こんなもんだ。
 しかしあの時、人影があっただろうか。そうも思ったが、まぁ真っ暗だったし、しかも携帯のライトしかなかった。さすがにあの程度の光では心ぼそい。そ
れに、今日の野々宮は全身黒で見づらい。綾も昨日は黒いスカートに黒いコートだった。しかし、白色のティアラをつけていて、しかもラメの模様がついて
いたので、見やすかったのだ。
 この真っ暗闇。そして緊張。この状況でそんなに近くにいなければ、気づかなくてもおかしくはない。
「で、携帯なんだけど。昨日、綾ちゃん落としちゃったでしょ。困ったわよ。私だって、いきなり人影が二人見えて頭真っ白になったし、かと思えば逃げてい
くしさ、そして携帯を落としていった。で、ついてるストラップで、あの人影は綾ちゃんと海藤君だとわかったの。でも普通に返す訳にもいかなかったの。あ
の場にいた事がわかると面倒だし、それに私も貴方達も、同じ事を調べてると知られたくなかったし。それに……」
「それに?」
「こうやって返した方が、面白うだったし」
 月の光で照らされている野々宮は、足を組んで小悪魔のように笑った。
 窓から月の光が差し込み、教室はそんなに暗くない。綾、野々宮、相川、島崎と円になって座っている。なんか変な感じだ。もうこんなシチュエーション、
一生ありえない。
 気楽な高校生活。もう残りは卒業式だけ。本当に終わりなんだ。
「でも困ったな。当たり前だけど怪奇現象はただの噂。って本当に幽霊いたら困るけど。あーあ、他に何書こう」
 俺は考えた。インパクトのある記事は……。
 いや、待て。そもそも、これは部活の集大成の発表だ。何もこれまでのやり方を変える事はないんじゃないか。今までのやり方で一番を狙えばいい。何
も無理やり考えなくてもいいんだ。
「生徒会新聞部の方でも困ってるのよ。だって文化部の発表なんて、美術部、合唱部、美術部あたりが絶対有利だもん」
「そうですよね。白井先輩、どうするんですか?」
「うーん。どうしようかな。玲ちゃん、なんかある?」
「無いなぁ。思いつかない。海藤君は?」
「そうだな……」
 一つ、思いついた。
「これまでずっと、俺達身の回りにあった事を、コラムにしてただろう。じゃあ、今回の事をお互い面白おかしく書いてしまえばいい。どっちが面白く書ける
か。どっちが別の記事を面白く、興味深く書くか。それが一番良いと思う」
 綾と野々宮は頷き、相川と島崎は笑っている。
 月が綺麗。満月だ。今日はもう少し、ここにいよう。まだ、今日は終わらない。
「あ、そうだみんな。今日ね、クッキー焼いてきたんだ」
「マジですか、白井先輩!」
 島崎が喜んでそう言うと、綾はポーチからクッキーの入った袋を取り出した。
「白井先輩のクッキー、おいしいんですよね」
「綾ちゃん、気が利くじゃん」
「沢山あるから、遠慮しないで食べてね」
 クッキーを、俺は丸ごと口に放り込んだ。とても甘くて、おいしい。
 このクッキーなら何枚でも食べられる。俺達は夢中になって綾のクッキーを食べた。まだ、夜は終わらない。

 それから日が経ち、三月一日。文化部の発表では、吹奏楽部が一番を取った。明清東新聞部と生徒会新聞部は、仲良く三位に選ばれた。どちらも同
じくらい面白かったと、皆は言った。
 まぁ、簡単に一番になれる訳はないけど、全力で頑張った事に意味がある。俺は満足している。
 あとは卒業式だけだ。制服を着られる時間は減っていく。胸には水色の花。目の前には体育館の扉。色々な思い出があるが、これが最後の思い出
だ。
 俺はいったい、何が嫌で何が不満で、何が面倒だったのか。何故なんでもすぐに諦めていたのか。それがダメだと思い始めたのはいつだったか。やる
気を出し始めたのはいつ頃からだったのか。
 わからない。そう、高校生活三年間は、わからなかった。わかった事なんてほとんどない。全てがわからなくて、戸惑っていた。色々なことが不思議で不
満で、何が正しいかわからない。
 それでも必死で正しい道を探していたと思うし、こうして卒業式を迎えられた。今なら、これまでの不満とか憎しみとかの負の感情を、全て許せる。楽し
い思い出ばかりが浮かび上がる。
 高校卒業は寂しいし、これからの事を考えると不満だが、それは俺には似合わない。
 それに、まだ俺は立派な高校生。先の事なんか、なんにもわからない。
 俺の右側に女子の列。後ろ側にいる野々宮と目が合う。ニコリと笑う。野々宮は、最後の最後まで楽しませてくれたし、色々世話になってしまった。卒
業しても、変わらずにいてほしい。
 そして俺の真横には、白井綾。
「ねぇ、駿」
「何?」
「ジロジロ見ないでよ」
「別に見てないっての。自意識過剰なんじゃないのか」
 俺がそう言うと、綾は思い切り俺の背中を蹴った。
「おい白井! 痛いって!」
「だから白井って言うな馬鹿!」
 もう一度、背中に蹴りを食らう。
「おい、白井! 痛いって言ってるだろ!」
 蹴るのを止めると、白井は満面の笑みで俺の頬を人差し指で突いた。無邪気に笑っている。何年経っても変わらない笑顔。
 体育館の扉がゆっくりと開いた。俺は、一歩一歩、前へ歩く。



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